本を読むということについて

私にとって、本を読むという行為はかなり大きなイベントだ。
 
実際は本に留まらず映画、芸術観賞、音楽なんかも当てはまるけど、殊「読書」という行為に関してその性質が顕著だ。
端的に言うと、「本を読むのに物凄くエネルギーを使う」のだ。
 
そもそも読書は嫌いじゃなくて、寧ろ好きだ。
自分の身になるし、感性そのものの一部になるから。
でも、読むことに物凄く時間をかけてしまう。その内億劫になり、なかなか実行に移せなくなり、気になっていた本を新しく買った曉には2,3時間程の「読書タイム(小学校の朝読書みたい)」を作り「いざ、読まん」と決心して読む。
 
自分でも「なんだこいつ」と思う。
これの原因だけど、恐らく「目的意識」のせいじゃないか。
 
本を読むことの目的は何か。
私は「未知の情報を得ることが出来るから」だと思っている。そうだよね?
 
その「未知の情報」の中は例えば社会の事象に関する考察や動物の生態だったり、医学、歴史、言葉そのものやレトリックと、多種多様だろう。
本を読むからには、何かしらの情報を本から受ける事になる。
そして、自分の感性や教養の一部となる。
 
私はこれをかなり重たく考えていて、「本を読んで何も受け取らないなんてありえへん、意味ないじゃん」と考えているみたいだ。
そのせいで、一度の読書で本1冊から全ての情報をゲットしなければならないと考えていて、そして読書という行為のウエイトが重くなって、その結果、だるくなっちゃうのだと、最近分かった。
 
だから「取り敢えず読も」みたいな軽い気持ちで通勤中に本を開くことが出来なくなっている。
だからってYouTubeまとめサイトばっかり見てヘラヘラしているのもイヤだ。嫌すぎる。
もっと気軽に読書できるようになりたい。出来れば速読もできるようになりたい。
家のエアコンが臭いから早くクリーニング業者来て欲しい。
塩パンってなんであんなに美味しいんだ。
Apple Watch欲しい。
 
ということを昨日の夜、洗濯物を畳みながら思った。
 
他の人達はどのような心持で読書に臨んでいるのだろうか。気になる。
 
ブログに文章を載せるのはかなり久し振りだけども、やっぱり自分思考の整理や、その時の感覚を保存できるから可能な限りやっておきたい。
 
この文章を書きながら、舌の先に口内炎が出来ていることがかなり気になっている。
ビタミンB2が足りていない。